Inca Garcilaso de la Vega
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ワマン・ポマの「新しい記録と良き統治」
モトリニーア神父による「ヌエバ・エスパーニャ布教史」
上記二つの文献で南米におけるリコーダーを調査したが他にも有力な文献があるので調べてみる。
インカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガによる「インカ皇統記」
インカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガ
インディオの子であると同時にスペイン人の子であること、すなわち混血児(メスティソ)である。
1539年クスコに生を受けた。父親 カピタン・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガ 1531年南米にやってきた征服者、カピタンとついているから大将なのだろう。
母親チンプ・オクリョと呼ばれるインカの王女 したがって彼はメスティソのエリート。 最初の混血児とも象徴的に呼ばれている。20才でスペインに渡り、60歳ごろから「インカ皇統記」を書き始めた。これをまとめるのは自分こそ最適任者であるとの自負をもっていた事は、前書きなどでも十分にうかがえる。
現地のケチュア語を母語として操り、その上ヨーロッパに渡って40年、スペイン語でも文筆活動を行いすっかりヨーロッパの人間になりきって書いている。
ペルー歴史上の重要人物と位置づけられているらしく、紙幣の肖像になったり、クスコにあるサッカースタジアムの名前は彼の名前がつけられている。海抜3400mの高地に位置している過酷なスタジアムとして有名なのだそうだ。
歴代の王の記述が多くを占めるが、音楽についての記述の部分を抜き出して紹介する。一続きの文章なのだが、内容によって4分割してある。
<以下引用>
「第26章幾何学、算術、音楽について彼らの知っていたこと」より音楽の部分を引用する。
・・・・・・
1)音楽の分野でも彼らは独自のものを持っており、たとえばコリャ族やその周辺に住むインディオたちは,葦の管でできた楽器を奏でた。これは4本か5本の葦管を二列に並べて縛り付けたもので、ちょうどパイプオルガンのように、管は順に隣のより少しずつ長くなっていた。通常は、それぞれ長さの異なる4本の管からなっていて、最初の一本が低い音を出し、次の管はそれよりも高い音を出し、また次のはさらに高い音を出すと言った具合で、それはまるで、四つの自然の声、ソプラノ、テノール、コントラルト、そしてバスのようであった。そして、一人のインディオがある音を出すと、次のインディオが五度の、あるいは他の和音で応じ、さらに次々が別の和音でというように、あるときは音階を上りながら、またあるときは下りながら、しかし常に調和を保って演奏するのであった。臨時記号によって音の高さを変更する方法は知られておらず、すべての音が一定の音階に従っていた。しかし、この楽器を巧みに演奏できるのは、王侯貴族に音楽を聞かせるために訓練をうけたインディオたちに限られていた、というのも、彼らの音楽は素朴ではあったものの、決して庶民の間に普及していたと言うわけではなく、それをマスターするには相当の訓練が必要だったからである。
2)彼らはまた、羊飼いのそれに似た、四つか五つの穴の開いたフルートを持っていたが、これは音を調和させて合奏するためではなく、独奏用であった。この楽器は、ハーモニーをつけて演奏することができなかったからである。彼らはフルートで自作の歌を奏でたが、そうした歌は一定の音節数の詩行からなり、たいていの場合、恋の感情を、すなわち恋の喜びと苦しみ、恋人のやさしさとすげなさを表現している。
歌にはそれぞれ、一般に知られた独特の節回しがあり、異なる種類の二つの歌を同じ調子で唄うことはできなかった。何故かというに、夜、恋人に向かってフルートで小夜曲を奏でる恋する男は、その節回しによって、思い姫と世間一般に対し、彼女の彼に対する好意あるいは冷たさに応じた、心の喜びあるいは悲哀を告げるが、異なった趣の歌が同一の調子で奏されたとするならば、恋する男の表現したいのがどちらの気持ちなのか、判別できなくなってしまうからである。また、このようなわけで、一般に、彼はフルートで話しかける、というような言い方もされるようになった。ここで一つエピソードをあげると、あるスペイン人が、クスコである夜中、知り合いのインディオ女にばったり出逢ったが、夜もふけていたので、早く家に戻るように薦めると、彼女はこう言ったという--
「だんな様、どうか私にこのまま行かせて下さい。あちらの丘から聞こえてきます、情愛のこもった笛の音が、やさしく私を呼んでいるものですから、じっとしてはいられないのです。どうか後生でございますから、このままにしておいて下さい。どうしてもあそこに行かなければなりません。愛が効し難い力で私を引きずり、私を彼の妻に、そして彼を私の夫にしようとしているのですから。」
戦争やそこでの武勲をテーマにして作られた歌が、このように奏でられることはなかった。それらは恋人に向けて唄われる性質のものでなければ、フルートの音色になじむものでもなかったからである。こうした歌は大きな祭りで、そして戦争の祝勝会で、兵士達の勇敢な武勲を称えて唄われるのであった。
3)私がペルーを発ったとき、それは1560年のことであったが、クスコ市には、どんな曲でも楽譜さえ前にすれば、絶妙な音色で演奏することのできるフルートの名手が五人いた。彼らは、その市の住人であったフアン・ロドリーゲス・デ・ビリャローボスの所有するインディオたちだった。これを書いている現在、すなわち1602年の時点では、楽器の演奏に卓越したインディオは、どこに行ってもごろごろしているとのことである。
4)喉に関しては、私がいたころインディオたちが、自慢することはあまりなく、一般に彼らが美声の持ち主とは言えなかった。歌唱法と言うものを知らなかった彼らは、ほとんど発声の練習などしなかったからに違いない。混血児の中には美声を誇る者が沢山いた。・・・・
・・・・<引用終わり>・・・・
一連の文章なのだが、3種類の楽器と歌について記述しているので4分割してある。[1)、2)、3)、4)]
最初の部分1)はあきらかにサンポーニャだろう。二列に並べて縛るのは現在も全く同じ、楽器自体はほとんど変化していないように思う。ただ残念なのは、インカ・ガルシラーソが楽器の名前を言っていないのだ。伝聞だけで実体験が全くないからと思われる。サンポーニャとかシークとか言っても良いと思うのだが。ヨーロッパの音楽学者が始めて出会った楽器を紹介するように、五度の和音とか臨時記号とか、ソプラノ、テノール、コントラルト、・・・・など専門用語をちりばめているわりには、具体性がない。 彼自身経験が全く無く、執筆もペルーを離れて40年も過ぎているのだ。 当時は限られた人間だけが扱えた楽器ということだからある程度仕方ないかもしれない。
2)3)はフルートとしてまとめてあるが、明らかに2)と3)は違う楽器だ。
2)四つか五つの穴が空いているフルートで話しかけ、セレナーデを演奏する。ほぼケーナを指しているだろう。ケーナの名人が多くいたことを思わせるが、すばらしい表現力だけではなく、信号を送る道具としてのケーナの側面もあったのではないかとも想像する。
3)はだいぶ時代が後になる。楽譜を見て演奏するとあるから、これはケーナではない、スペインによって持ち込まれた楽器、多分リコーダーであろうと察せられるが、横笛のフルートである可能性も否定できない。その40年後は笛以外の楽器も含むヨーロッパからもたらされた楽器の演奏に卓越したインディオはどこに行っってもごろごろしているほど多くなった。
4)の歌に関しては、ちょっと面白い記録があるので、後日取り上げるつもりです。
著者のインカ・ガルシラーソは堪能なスペイン語に加えケチュア語も自在に話すことができた。それだけに内容の評価は高いと思われる。
しかし実際に当事者となって苦労し感動しながら書いたワマン・ポマやモトリニーア神父のような臨場感には欠けるような気がする。
注(後藤)
ここにおいてFlute=フルートと翻訳するのは誤解を生む素になる。日本語でフルートといえばまず間違いなく金属でできたベームフルートを想像する。しかしヨーロッパにおいては歴史的に色々な笛の種類があったことは常識として理解されているので、Flute(ドイツやイタリアなど他国語表記も含む) とはそれらの総称であると考えられているように思う。また縦横両方のタイプも含まれている。したがって、Flute=笛と翻訳するのが最良と思われる。篠笛や尺八もbambooーFlute となるだろう。
参考文献
岩波書店 大航海時代叢書エクストラ・シリーズ「インカ皇統記」インカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガ 牛島信明 翻訳
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