5/10/2017

「ハートソング」:作曲家アントニオ・ヴィヴァルディとある少女の物語

 

「ハートソング」:作曲家アントニオ・ヴィヴァルディとある少女の物語 / ケビン・クロスリー=ホランド/文 ジェーン・レイ/絵 小島希里/訳 

爛熟期(1700年代)のベネツィアには貧しさなどの為、産まれた子供を育てられない母親が、子供を捨てる施設があった。
その一つが救貧院ピエタ(注1)、そこには音楽院も併設され、才能を認められた少女たちは教育を受け「音楽隊の娘たち」として演奏活動を行うのだ。
少女達のヴァイオリン教師としてアントニオ・ヴィヴァルディは40年近く色々な資格で教えたが、彼の他にもフランチェスコ・ガスパリーニ、ドメニコ・スカルラッティ、ベネデット・マルチェロ、ヨハン・ヨアヒム・クヴァンツなど当時一流の音楽家達が名を連ねている。ヴィヴァルディだけではなく多くの音楽家が関わっていたのだ。
外部から音楽のレッスンを受けに貴族の娘なども通っていて、音楽学校のような役割も果たしていたらしい。
ヴィヴァルディは当然超一流であるが、当時の他の一流音楽家に混じってしまうと特別に目立った存在ではなかったのかもしれない。ヴァイオリン教師としての契約も一時途切れた事が知られている。
しかし現代の我々からすれば40年近く関係を持ち、ピエタで演奏したであろう多くの曲を残しているのだからピエタとヴィヴァルディの関係は絶大であり、ヴィヴァルディを通してピエタを理解するのも、決して的外れではないと思う。
以前書いた「ピエタ」 大島真澄 ポプラ文庫ではヴィヴァルディとヴァイオリン協奏曲集「調和の霊感」そしてエミーリアとアンナ・マリーアの2人の女性を中心として話が進められたが、今回の「ハートソング」では口のきけない少女ラウラとリコーダーそしてアントニオ神父(ヴィヴァルディ)を中心として話は展開して行く。
楽器をヴァイオリンでなくリコーダーとしたところに、この小説の性格が定まり、
もし他の楽器、例えば ヴァイオリン、ファゴット、オーボエでは別の流れになったと思われる。
もちろん実際にリコーダーを教えたのはヴィヴァルディ以外のリコーダー教師だろう。

あとがきによれば当時ピエタには800人ほどの子供が収容されていた、そのうち男子は60人ほどでやはり女子が圧倒的に多く捨てられていたのだ。
そんな中で音楽の才能を認められ「音楽隊の娘たち」として教育を受け演奏活動が出来るのは     ほんの一握りでしかない訳で、選ばれなかった子達の羨望や妬みは当然だし、「音楽隊の娘たち」に選ばれたとしても今度は内部の序列競争が激烈なのだ。 第1リコーダー スザンナ、第2リコーダー シルヴィア そして新たに加わったラウラ、彼女の上達でシルヴィアが嘆く場面がある。しかしそのような緊張感だけではなく、彼女たちを育てる事を断念するしかなかった親への思いは全ての子に存在し、それが一種の連帯感のような友情を生み出していたに違いない。
ピエタは外部には簡単には出られなかったが、施設の中では800名もの少女たちのおしゃべりや場合によっては喧嘩そして楽器の練習の音が満ちていたのだろう。

最初に読んだ時、比較的短い本なので、リコーダーを練習するラウラとアントニオ神父の物語として簡単に結末まで進んだ。しかし結末が少しピンボケのような気がした。
少し時間を置いて読み返してみた。なんだ裏側の流れもしっかり書き込んである。これなら納得。表面の流れを追うあまり、裏の流れが全く読み取れてなかった。私も石頭の頑固ジジイに近づきつつあるのだ。

気になる場所があった、「アルカンジェロ・コレリのカンタータを練習している」との記述だ。
あれ?コレッリにカンタータなどあったっけ? 確か楽譜は存在していないと思う。
しかしこのような記事を読んだことがある。・・・・・以下引用
コレッリの指揮
バッハと同年生まれのジョージ・フリデリック・ヘンデルは、弱冠23歳であったイタリア時代にオラトリオ《復活》(正式には《われらが主イエス・キリストの復活》)を発表しています。この作品は1708年の復活祭(4月8日)にローマのボネッリ宮で初演され、好評を博したため再演されていますが、初演で指揮をしたのはほかならぬアルカンジェロ・コレッリであったと伝えられています。

キリスト教と音楽  ヨーロッパ音楽の源流をたずねて  金澤正剛 音楽之友社
《メサイア》誕生物語  ・・引用ここまで

コレッリがヘンデルのオラトリオの指揮をしたという事だとすると、コレッリ作曲のカンタータというのも十分あり得る話だと思う。作者の想像力だけで書いたのではなく、何か文献の裏付けがあるのだろう。

当時のヴェネツィアの様子をもっと書き込んで欲しいとの思いはあるものの、最小限の記述に止め、ピエタとヴィヴァルディとの確執もバッサリ切り捨て、
ピエタそのものについての記述、全体の規模とか男女の比率、入所の方法、など細かいようだけれども、それを知る事により、ピエタがぐっと身近に感じられてくる、そして「後書き」で知ったのだが、ヴィヴァルディの生家とピエタが100mぐらいしか離れていないとの事、不思議な気持ちにさせられる。
添えられている絵が秀逸 、実は文章よりも絵の方が先行したとのこと、納得できる。
ヴィヴァルディのリコーダーコンチェルトも他の楽器と同様にソロ奏者に至難の要求をしている。口うるさいヴェネツィア市民の喝采を取るにはそれが必要だったし、それを演奏できる少女たちが存在したと言うことだろう。
現代の私たちがこのリコーダーコンチェルトを演奏するのは余程の覚悟が必要だが、この本を読むのは比較的簡単。ピエタがぐっと近づいて来る。おすすめです。

(注1)
正確には「ピエタ病院附属音楽院 Seminario musicale dell' ospidale della Pieta」

当時ヴェネツィアにはこのような施設はピエタを含めて4つあった。

0 件のコメント:

コメントを投稿