2/24/2014

フレンドシップコンサート HRCの演奏曲目




フレンドシップコンサートまであと2週間、各グループも曲目などほぼ決定していると思います。今回は照明の操作員も出てもらえるらしく、背景に色の付いた照明を当てるぐらいのことはできるそうです。 

私たちHRCもほぼ曲目が決まりました。多分変更はないと思うので、バラしてしまいましょう。

1.Fine Knacks for Ladies  : J.Dowland
私たちが、いつも最初に必ず演奏しているテーマ曲です。本来は歌詞のついた歌なのですが、軽妙な感じが出せるかどうか。
「珍品はいかが 安くて素敵な品ですよ さあお買い得」と品物を売っているようで実はご婦人方に自分自身を売り込んでいる。

2.My Lord Willoughby's Welcome Home  :J.Dowland (ウイロビー卿の帰還) 
「隣のローランド」と同じメロディーを使用しています。当時の流行歌だそうで、ダウランドはリュートの曲として作曲していますが、今回はリュートとリコーダーで演奏します。YouTubeで声楽と打楽器による演奏を見つけましたので載せておきます。

3.O Nachbar Roland  :S.Scheidt(おお隣のローランド) 
リコーダーではよく演奏される曲で「お試しステラ」のCDにも入っていました。各パートが複雑に絡み合いながら進行します。
本来はガンバで演奏される曲だと思うのですが、アーノンクール   コンセントゥス・ムジクスの演奏がすばらしい。

4.El Condor Pasa : Daniel A. Roblos (コンドルは飛んでいく ) 
フォルクローレの定番ともいえる有名な曲、アンデス民謡ではなく、スペインに対して反乱を起こした英雄コンドルカンキを題材にした歌劇の序曲に含まれている旋律です。
作者のロブロスが各地の民謡を採譜していたノートは残されているが、一致するる旋律は見つかっていないらしい。
以前ケーナで演奏したこともあるのですが、リコーダーでも別な味が出せればと思います。


参考 YouTube My Lord Willoughby's Welcome Home J.Dowland の旋律を元にD.W.Solomons が編曲
合唱曲として迫力ある演奏ですが、当時の流行歌の歌い方を再現しているのかはわかりません。 





2/16/2014

中南米におけるルネッサンスリコーダーの痕跡-6インカ皇統紀

鋤で畑を耕す。 ワマン・ポマの挿絵

インカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガの「皇統記」を今回も取り上げる、リコーダーに関係すると思われる文章だけを紹介してきたが、今回はリコーダーは出てこない、しかし、原住民達が土地を耕し、歌を唄う、そこへ教会を含むヨーロッパ文化が合流すると何が起こるか、約450年前の出来事だが、彼の記述は学友が関係していたので、実際に体験しているわけだから、具体的で迫力がある。ぜひ紹介しておきたい。

<以下引用>
第5の書 第2章
「土地の耕作に見られた秩序と、インカ王および太陽の土地の耕作にまつわる祭儀について」
土地を耕し、作物を栽培するにも、調和の取れた秩序があった。・・・・人々はまず太陽の土地を耕し、次に寡婦と孤児の土地、そして高齢や病気のため体が不自由な者たちの土地を耕すことになっていた。これらは皆、気の毒な弱者とみなされ、それゆえインカ王は、彼らの土地を優先して耕すよう、人々に命じたのである。・・・選ばれた人民委員よりラッパか笛で合図があると各自受け持ちの畑に弁当もちで馳せ参ずることが義務付けられていた。・・・・気の毒な弱者達の土地を耕してしまうと、今度は自分達の土地を、互いに助け合って、という言い習わしのとおり、協力して耕作した。・・・ ・・・一番最後に耕作されるのがインカ王の土地であり、これはインディオ全員の共同作業で行われた。王の畑、あるいは太陽の畑へ農作業に出かける時のインディオたちは皆、満足感と喜びに満ちあふれ、最大の祭事のためにとってあった、金銀飾りのついた晴れ着で装い、頭には大きな羽飾りをつけていた。そして、鋤で土を掘り起こしながら、インカを称えてつくられた多くの歌を口ずさんだ。・・・・ そうした歌はすべて、ペルーの共通語で「勝利」を意味する(ハイリ)という言葉に基づいていた。・・一節ごとに(ハイリ)の反復句が唱えられ、それは、インディオたちがうまく土塊をとらえて砕くために鋤を打ち込んでは引き抜く、一定のリズムに合致するように、必要なだけ何度でも繰り返されたのである。・・・・・・

インディオのこうした歌とその調子がひどく気に入ったクスコ大聖堂の聖歌隊指揮者が、1551年か1552年のこと、聖体祭のために、インカの歌を完全に模倣したオルガン合唱曲を作曲した。そして、私の学友であった8人の混血児が、インディオの服装をし、それぞれ鋤を手にして繰り出し、聖体行列の中で、インディオの(ハイリ)の歌を披露したのである。各節の反復句に来ると、聖歌隊員がいっせいに唱和した。スペイン人たちはおおいに満足し、インディオたちは、自分達の歌と踊りでもって、スペイン人が主なる神(この神をインディオたちはパチャマック・・と呼んでいた)の祭礼を執り行うのをみて、有頂天であった。

<引用終わり>

インカ・ガルシラーソが貴族の子孫であれば土地の耕作の秩序を書くのはお手のもの。彼でなければできない描写が続く。
オルガンが鳴り響きそこへ学友のメスティソ達が鋤を手にインカの農耕歌を歌う。「ハイリ!ハイリ!」の唱和の声に、詰めかけた観客たち(スペイン人、インディオ、神父など)からどよめきが上がる。インディオの音楽とヨーロッパ音楽が融合した瞬間だろう。

ワマン・ポマの挿絵の中にも鋤で耕す場面が登場する。「8月トウモロコシを植える為に畑を耕し始める。人々はチチャを飲みハイリを歌う」と説明されているから、この場面にぴったりなので使用させてもらった。

参考文献
岩波書店 大航海時代叢書エクストラ・シリーズ「インカ皇統記」インカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガ

厚木リコーダー・オーケストラ 1st Concert


2014/2/9 (日)厚木文化会館小ホール

前日の大雪からは信じられないほどの青空、演奏会は中止にはならないだろう。
本厚木は降雪量が多かったかもしれない。念のため軽登山靴を履いて出発。
電車の窓から雪をかぶった丹沢がよく見える。少しづつ大きくなつてくる。突然視界が大きく開き、丹沢山塊が目の前に広がる。電車が相模川を越えたのだ。すぐに本厚木駅に到着。
雪のため観客は少ないだろうと思ったが、そんなことは無い、7割以上席は埋まっているように見えた。

プログラムは4部構成となっており、
第1部 厚木 リコーダー・オーケストラ 基礎コース
第2部 厚木リコーダー・オーケストラ
第3部 積志リコーダーカルテット
第4部  合同演奏

第1部
2つのフランス舞曲 J.D.ケアリー  、主よ、人の望みの喜びよJ.S.バッハなど楽しく聴けた。出演者の中に小学生低学年の女の子が4人も含まれているのだ。リコーダーの演奏経験もいろいろ差があるのは当然で、演奏者全員が楽しめる選曲は難しい作業だが、ここでは良好な選曲だったと思う。

第2部
8声のカンツォン”ラ・フォッカーラ”  C.ブラミエリは重厚な音色が聴けた。
8つのマスクダンス  J.コペラリオ では打楽器が入ることによって全体に活気がみなぎる。リコーダーと打楽器との音量バランスも良かったと思う。
小交響曲  C.グノー  リコーダーにとって難しい曲のように思える。特にテンポ感、演奏者が多くなれば、「最大公約数」的なテンポになってしまうことは、ある程度仕方のないことかもしれないが、曲によってはそれが目立ってしまう。しかしこれはどこのリコーダーオーケストラでも難題であり、克服は容易ではない。

第3部
積志リコーダーカルテット(SRQ)は想像していた以上に上手くそして楽しめた。
もしろん演奏テクニックが優れているグループは他にもあると思うが、ここは適切な選曲そしてアレンジを自分たちで行い、それを小気味良い司会でつないで行く、個々の曲がバラバラにあるのではなく、全体が一つの流れとなっていて舞台に引きつけられっ放しになる。リコーダー製作者が2人も含まれていて、お仕着せではない本当に必要な楽器を自前で使用できるのも強みだろう。


第4部合同演奏
サウンドオブミュージック 編曲の河野和男氏は小学校の先生でリコーダーの指導に熱心だったそうだ。
このような場面にはピッタリではないかとの思える曲
アンコールのゆうやけこやけは女の子たちの「♪もういいかい」「♪まあだだよ」のかけ声で始まり、最後はガークラインまで登場するサーヴィスぶりであった。

全体の構成も4部に分かれ、それぞれ特色が出ていて興味が途切れないのだ。
会場の小ホールは音響反射板が設置してあり、観客席後方でも十分な音量で聴くことができた。大雪の直後でもこれだけの入場者がいることは、演奏者を取り巻く家族や友人達との良好な関係が想像され、今後大切にすべき点かもしれない。


場内撮影禁止のアナウンスがあったので演奏中の写真はないが、花束贈呈の時、撮らせてもらった1枚を載せておきます。
当日演奏されたSRQの演奏はすでにYouTubeにアップされているので聴くことができるので紹介します。2つのヴァイオリンのための協奏曲 バッハ  他の曲はイモズル式で聴けると思います。

2/02/2014

中南米におけるルネッサンスリコーダーの痕跡-5 インカ皇統記

Inca Garcilaso de la Vega


 ワマン・ポマの「新しい記録と良き統治」
モトリニーア神父による「ヌエバ・エスパーニャ布教史」
上記二つの文献で南米におけるリコーダーを調査したが他にも有力な文献があるので調べてみる。
 インカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガによる「インカ皇統記」

インカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガ
インディオの子であると同時にスペイン人の子であること、すなわち混血児(メスティソ)である。
1539年クスコに生を受けた。父親 カピタン・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガ 1531年南米にやってきた征服者、カピタンとついているから大将なのだろう。
母親チンプ・オクリョと呼ばれるインカの王女 したがって彼はメスティソのエリート。 最初の混血児とも象徴的に呼ばれている。20才でスペインに渡り、60歳ごろから「インカ皇統記」を書き始めた。これをまとめるのは自分こそ最適任者であるとの自負をもっていた事は、前書きなどでも十分にうかがえる。
現地のケチュア語を母語として操り、その上ヨーロッパに渡って40年、スペイン語でも文筆活動を行いすっかりヨーロッパの人間になりきって書いている。
ペルー歴史上の重要人物と位置づけられているらしく、紙幣の肖像になったり、クスコにあるサッカースタジアムの名前は彼の名前がつけられている。海抜3400mの高地に位置している過酷なスタジアムとして有名なのだそうだ。

歴代の王の記述が多くを占めるが、音楽についての記述の部分を抜き出して紹介する。一続きの文章なのだが、内容によって4分割してある。

<以下引用>

「第26章幾何学、算術、音楽について彼らの知っていたこと」より音楽の部分を引用する。
・・・・・・
1)音楽の分野でも彼らは独自のものを持っており、たとえばコリャ族やその周辺に住むインディオたちは,葦の管でできた楽器を奏でた。これは4本か5本の葦管を二列に並べて縛り付けたもので、ちょうどパイプオルガンのように、管は順に隣のより少しずつ長くなっていた。通常は、それぞれ長さの異なる4本の管からなっていて、最初の一本が低い音を出し、次の管はそれよりも高い音を出し、また次のはさらに高い音を出すと言った具合で、それはまるで、四つの自然の声、ソプラノ、テノール、コントラルト、そしてバスのようであった。そして、一人のインディオがある音を出すと、次のインディオが五度の、あるいは他の和音で応じ、さらに次々が別の和音でというように、あるときは音階を上りながら、またあるときは下りながら、しかし常に調和を保って演奏するのであった。臨時記号によって音の高さを変更する方法は知られておらず、すべての音が一定の音階に従っていた。しかし、この楽器を巧みに演奏できるのは、王侯貴族に音楽を聞かせるために訓練をうけたインディオたちに限られていた、というのも、彼らの音楽は素朴ではあったものの、決して庶民の間に普及していたと言うわけではなく、それをマスターするには相当の訓練が必要だったからである。

2)彼らはまた、羊飼いのそれに似た、四つか五つの穴の開いたフルートを持っていたが、これは音を調和させて合奏するためではなく、独奏用であった。この楽器は、ハーモニーをつけて演奏することができなかったからである。彼らはフルートで自作の歌を奏でたが、そうした歌は一定の音節数の詩行からなり、たいていの場合、恋の感情を、すなわち恋の喜びと苦しみ、恋人のやさしさとすげなさを表現している。
歌にはそれぞれ、一般に知られた独特の節回しがあり、異なる種類の二つの歌を同じ調子で唄うことはできなかった。何故かというに、夜、恋人に向かってフルートで小夜曲を奏でる恋する男は、その節回しによって、思い姫と世間一般に対し、彼女の彼に対する好意あるいは冷たさに応じた、心の喜びあるいは悲哀を告げるが、異なった趣の歌が同一の調子で奏されたとするならば、恋する男の表現したいのがどちらの気持ちなのか、判別できなくなってしまうからである。また、このようなわけで、一般に、彼はフルートで話しかける、というような言い方もされるようになった。ここで一つエピソードをあげると、あるスペイン人が、クスコである夜中、知り合いのインディオ女にばったり出逢ったが、夜もふけていたので、早く家に戻るように薦めると、彼女はこう言ったという--
「だんな様、どうか私にこのまま行かせて下さい。あちらの丘から聞こえてきます、情愛のこもった笛の音が、やさしく私を呼んでいるものですから、じっとしてはいられないのです。どうか後生でございますから、このままにしておいて下さい。どうしてもあそこに行かなければなりません。愛が効し難い力で私を引きずり、私を彼の妻に、そして彼を私の夫にしようとしているのですから。」
戦争やそこでの武勲をテーマにして作られた歌が、このように奏でられることはなかった。それらは恋人に向けて唄われる性質のものでなければ、フルートの音色になじむものでもなかったからである。こうした歌は大きな祭りで、そして戦争の祝勝会で、兵士達の勇敢な武勲を称えて唄われるのであった。

3)私がペルーを発ったとき、それは1560年のことであったが、クスコ市には、どんな曲でも楽譜さえ前にすれば、絶妙な音色で演奏することのできるフルートの名手が五人いた。彼らは、その市の住人であったフアン・ロドリーゲス・デ・ビリャローボスの所有するインディオたちだった。これを書いている現在、すなわち1602年の時点では、楽器の演奏に卓越したインディオは、どこに行ってもごろごろしているとのことである。

4)喉に関しては、私がいたころインディオたちが、自慢することはあまりなく、一般に彼らが美声の持ち主とは言えなかった。歌唱法と言うものを知らなかった彼らは、ほとんど発声の練習などしなかったからに違いない。混血児の中には美声を誇る者が沢山いた。・・・・
・・・・<引用終わり>・・・・

一連の文章なのだが、3種類の楽器と歌について記述しているので4分割してある。[1)、2)、3)、4)]

最初の部分1)はあきらかにサンポーニャだろう。二列に並べて縛るのは現在も全く同じ、楽器自体はほとんど変化していないように思う。ただ残念なのは、インカ・ガルシラーソが楽器の名前を言っていないのだ。伝聞だけで実体験が全くないからと思われる。サンポーニャとかシークとか言っても良いと思うのだが。ヨーロッパの音楽学者が始めて出会った楽器を紹介するように、五度の和音とか臨時記号とか、ソプラノ、テノール、コントラルト、・・・・など専門用語をちりばめているわりには、具体性がない。 彼自身経験が全く無く、執筆もペルーを離れて40年も過ぎているのだ。 当時は限られた人間だけが扱えた楽器ということだからある程度仕方ないかもしれない。

2)3)はフルートとしてまとめてあるが、明らかに2)と3)は違う楽器だ。

2)四つか五つの穴が空いているフルートで話しかけ、セレナーデを演奏する。ほぼケーナを指しているだろう。ケーナの名人が多くいたことを思わせるが、すばらしい表現力だけではなく、信号を送る道具としてのケーナの側面もあったのではないかとも想像する。

3)はだいぶ時代が後になる。楽譜を見て演奏するとあるから、これはケーナではない、スペインによって持ち込まれた楽器、多分リコーダーであろうと察せられるが、横笛のフルートである可能性も否定できない。その40年後は笛以外の楽器も含むヨーロッパからもたらされた楽器の演奏に卓越したインディオはどこに行っってもごろごろしているほど多くなった。

4)の歌に関しては、ちょっと面白い記録があるので、後日取り上げるつもりです。

著者のインカ・ガルシラーソは堪能なスペイン語に加えケチュア語も自在に話すことができた。それだけに内容の評価は高いと思われる。
しかし実際に当事者となって苦労し感動しながら書いたワマン・ポマやモトリニーア神父のような臨場感には欠けるような気がする。

注(後藤)
ここにおいてFlute=フルートと翻訳するのは誤解を生む素になる。日本語でフルートといえばまず間違いなく金属でできたベームフルートを想像する。しかしヨーロッパにおいては歴史的に色々な笛の種類があったことは常識として理解されているので、Flute(ドイツやイタリアなど他国語表記も含む) とはそれらの総称であると考えられているように思う。また縦横両方のタイプも含まれている。したがって、Flute=笛と翻訳するのが最良と思われる。篠笛や尺八もbambooーFlute となるだろう。

参考文献
岩波書店 大航海時代叢書エクストラ・シリーズ「インカ皇統記」インカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガ  牛島信明 翻訳